ホールの隅っこの方でピアノの音が鳴り始めた。
1930年代に流行ったセンチメンタルなメロディだ。
彼女が俺の隣でこう言った。
「あら、懐かしい曲ね。あのピアニストはどうしてこんな曲を知っているのかしら」
俺は「さあ。どうしてだろう」と答えると、バーテンダーに新しいマティーニを注文した。
こちらの世界で美味しいマティーニに出会うのは嘘をついたことのない詐欺師に出会うくらい困難だ。
この前にこの店に来たのはもう30年も前なのに、バーテンダーは俺がジンはビーフィーターをヴェルモットはノイリー・プラットを好むことを覚えてくれている。
俺はバーテンダーに「あの曲は以前から演奏されてたかな?」と訊ねた。
「いえ、この曲は先週いらっしゃったお客様から頂いた楽譜を見て演奏しているんです。お好きな曲なんですか?」とバーテンダーは答える。
俺は「いや、ちょっと思い当たることがあってね」とあいまいに答えた。
彼女が俺の方を見て「やっぱりね」という表情をした。
「その男はスコッチ&ソーダに少しビターズをたらしてって注文しただろ」
「ええ、その通りです。ここで40年間お酒を作ってきてそんな注文は初めてだったのでびっくりいたしました」
俺と彼女は内ポケットの中の銃に弾がこめられているのを確認した。
この世界でもまた戦いが始まるなんて…
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